記事中の写真とはあんまり関係ない、とりとめない話。

Twitterで「トイカメラはカメラとしての性能がそんなに良くないから偶然ああいう写りになるっていう気まぐれさが楽しいのであって、スマホとかのトイカメラ風フィルターとかにあまり興味は湧かないしみんな好んで使ってるのが解せない」みたいな話を見かけて、うーん、まぁ、あれはマヨネーズみたいなもんじゃないですかね、ってコメントした。そのままじゃちょっと味気ない気はするけどとりあえずマヨネーズかけるとマヨネーズ味になるから美味しい、みたいな。それ自体は別に解せないというほどのことでもないような、割とふつーの感覚な気はする(僕はどっちかというとその人と近くて、トイカメラ風フィルター使うくらいならがっつりレタッチするなりトイカメラそのものを使うなりする方が楽しい派だけど)。

んで、その後の話の方がちょっと面白かった。「日常の写真にフィルタをかけるっていうのは、各種SNSで人に見せる前提になったからこその行為で、スマホで撮る写真がただの記録ならフィルタを使わなくてもいいのに、みんなちょっとだけ自分の日常を演出して人に見せたいんだよね、自分の日常をコンテンツ化したいんだよね」って分析をしてて、ああうん、そう、確かにそれはそうなんだよね、とは思う。自分の日常の断片、コンテンツだと思ってるから人に見せてるとこあるし、人に見せる以上は何らかの演出をする。それは単なる記録ではない。

と、そこまで考えてふと、「あれでもそもそもスマホ、というかケータイで写真を撮るのって最初から"ただの記録"じゃなくて"コンテンツ"として撮ってなかったっけ」って思い出した。僕が最初に携帯電話なるものを手にしたのは高校生になるちょっと前くらいのときだけど、そんときはカメラ付きケータイが出始めた頃で、確か「メールに写真を付けて送れる!」みたいな売り文句で流行り出したはずなんですよ。写メ。そんで「可愛い猫いた!」「すげー変な看板見付けた(笑)」「今北海道に来て海鮮丼食べてる♪」みたいなメールを送るために写真を撮ってたわけで(これ今TwitterとかFacebookでやってるようなことだ)、はなから人に見せるの前提の写真であって、自分のための記録ではなかった気がする。SNS以前でも、スマホ以前でも。

つまりなにが言いたいかというと、「写真を撮るというのは単に記録であった→カメラ付き携帯電話が登場したからカメラではなく携帯電話で記録を行なうようになった→SNSが普及して記録ではなくコンテンツとして写真を撮るようになったので自分の日常になんらかの演出を付けて人に見せるようになった」という順番ではなくて、「そもそも最初から他の人に見せるためのコンテンツとしてケータイで写真を撮っていた→そこにSNSが出てきたのでもう少し広い範囲にその"コンテンツ"を見せるようになった→スマホの登場で"コンテンツ作り"のために出来ることが増えた、フィルタをかけることもそのうちの一つ」って順番だったはず。記録をすること自体が好きな人とか、元々写真が趣味だった人は違うかもしれないけど、僕はそんな感じだった。

カメラ付きケータイ以前はどうだったかなー。写ルンですとかで撮ってたのは確かにコンテンツではなく記録だった気はする。けど、中学生のおこづかいにはレンズ付きフィルムも現像代も安くはなかったので、運動会とか修学旅行とかの特別なイベントの記録だった、ような。

振り返ってみると僕にとっては写真が「単なる日常の記録」だったことは無くて、むしろ写真を撮ることのコストがすごく下がった(カメラ持って歩かなくても高性能なカメラ付きのスマホを常に持ってて、現像代もかからなければ画像数十枚程度なら容量を食うとか気にもしない)今だからこそ「単なる日常の記録」として使うようになった気はしてる。写真って一括りにするけど、写真って色んな種類があったなって。今日はちょっと、そんなとりとめのない追憶。